裕紀にとって4度目の全日本チャンピオン獲得は、一筋縄ではいかなかった。コロナ禍の中、全4戦という短期集中で行われた2020年シーズン。新設されたST1000クラスに日本郵便Honda Dream TPよりエントリーし、開幕戦から2戦連続でポールtoフィニッシュを飾ったが、もてぎラウンドでは名越選手に競り負け2位。それでも圧倒的に有利な状況で最終戦鈴鹿を迎えていた。
しかし、レースの神様は裕紀に試練を与える。
トレーニング中に転倒し、左手のしゅうじょう骨、肋骨3本にヒビを入れるケガを負ってしまう。タイトル決定の条件は、暫定ランキング2番手の名越選手が優勝しても20位以内に入ればいいというものだったが、どれだけ走ることができるか分からない状況となっていた。
木曜日の特別走行からセッションがスタート。1回目の走行で裕紀は周囲の心配を余所にトップタイムをマークして見せる。しかし、ケガの影響は、かなりあり、痛みも伴っていた。裕紀は、チームと話し合い、なるべく左腕に負担をかけないセッティングを施しながら、裕紀自身も走り方を工夫していった。
公式予選では、早めにタイムを出して切り上げることも考えたが、2分08秒台が見えて来たこともあり、セッション終盤にタイムアタック。2分09秒223で3番手につけていたが、この時点でさらなる試練が待っているとは誰も思っていなかった。
レースウイークを通じて秋晴れに恵まれた最終戦は、いよいよ運命の決勝レースを迎える。ウォームアップを終え、フロントロウ、イン側のグリッドに着いた高橋はシグナルを確認する。レッドが点灯し、ブラックアウトするまでの時間が、いつもより僅かに長かった。左手の握力のない裕紀は、必死にクラッチを握り、リアブレーキを踏んでいたが、半クラ状態になってしまい、僅かに動いてしまう。
「あとで冷静に考えれば、クラッチにあそびを作っておけばよかったのですが、いつも通りのギリギリのセットになっていました」
アタマが半分パニックになりながらも、1コーナーには2番手で入って行き、3コーナーで津田選手をかわしてトップに立つ。その直後のデグナーカーブ進入では、3番手につけていた名越選手が津田選手と共に裕紀も抜きにかかってくる。これを間一髪で避けた裕紀だったが、デグナーカーブ2個目の進入で津田選手にかわされ3番手にポジションを落としてしまう。当面の争いよりも、各コーナーのポストを凝視しながらライディングを続ける。そして2周目の西コースに入ろうかというときにジャンプスタートを告げる表示が各ポストに提示される。130Rからアウト側のラインを取り、ピットロードに向かった裕紀は、ライドスルーペナルティをこなして行く。
「“とんでもないことをしてしまった! レース人生初めてのジャンプスタートをこんな大事なときにしてしまうなんて。コレでチャンピオン逃してしまうのか!?”と思いましたね。ピットを通過するときは“お願いだから見ないで”という感じでした」
コースに戻った時点で最後尾の30位。残り周回数は8周となっていた。
「ホームストレート、バックストレートでも、なかなか前のライダーが現れないので、すごく不安になりました。1台ようやく現れても、次ぎは、どこ? と思いながら全力で走っていました。全力だったので、何度か転倒しそうになりましたが“ここで頑張らなければ、いつ頑張るんだ”と思っていました」
痛む身体にムチを打ち、前のライダーを追っていく。3周目に27番手、4周目に23番手、5周目には21番手となると、6周目には20番手に浮上する。
「走りながら20位でホント大丈夫なのか? 普通に走っていれば20位なんて意識しないポジションですが、こんなに20位を意識したのは初めてでした。この時点でサインボードで“OK”と出ると思っていたのですが、サインエリアもパニックになっていたようですね」
結局、明確なサインは最後まで出ず、裕紀は、最終ラップまで全力で追い上げて行き16位でゴール。チームスタッフは、ピットウォールに立ち上がって裕紀を迎えたが、最後まで前を抜こうとしていたため、ピットを見る余裕もなく2コーナーでチャンピオンフラッグを受け取ったところで初めて確信できていた。
「最後まで前のライダーを探していましたし必死でした。ゴールした瞬間も前を抜こうとしていたので、ピット前をゆっくり通り過ぎる余裕もなく“みんながピットウォールに立っていたような気がする?”としか見えなくて、2コーナーのところでチャンピオンフラッグをHRCの小野さんにもらったのですが“本当にボクですか?”と聞いたくらいでした(笑)。“あ~、よかった~”と安堵しましたし、もう二度と経験したくないと思いました」
チャンピオンフラッグを持った裕紀は、波乱の最終戦を振り返りながら安堵し、チームと共につかんだ全日本ST1000初代チャンピオンの座を噛みしめたのだった。
高橋裕紀「まずは、応援してくださった全ての皆さんに感謝したいですね。チャンピオンを獲ることができて本当にホッとしています。初代チャンピオンというのは大事ですし、Hondaが本気で作り上げたCBR1000RR-Rのデビューイヤーでタイトルを獲ることも意識していました。人生初のジャンプスタートにより最後尾からの追い上げになりましたが、何とか追い上げることができました。これもチームと共に積み上げていたマージンがあったからこそです。コロナ禍で短期決戦でしたが、いろいろなことがあり、内容の濃いシーズンでした。来シーズンは新たなチャレンジもありますし、まだまだ頑張って行きますので、引き続き応援よろしくお願いいたします」